山川美和役 守田菜生/澤田汐音
国家老・山川兵衛の孫。会津戦争で鶴ヶ城に篭城する。
中野竹子率いる薙刀隊【娘子隊】(じょうしたい)。
25回『白虎隊出陣』より娘子隊の岡村すま子、依田菊子、依田まき子も出演。
八重に薙刀娘子隊として共に戦おうと誘っていましたね。当時、娘子隊(じょうしたい)には正式な隊名はなく娘子軍(じょうしぐん)、婦女隊(ふじょたい)とも呼ばれていました。中野こう子、中野竹子、中野優子、依田まき子、依田菊子、岡村ます子の
6名の他に20数名いたと説があり。髪を切り落として男装姿だった。
神保修理の妻・雪は、この隊に加わって戦死した説と新政府軍に捕らえられ自刃した説があります。
中野竹子率いる娘子隊として新政府軍と戦う。
白虎隊士中二番隊として藩主喜徳の警固の為、新選組と共に猪苗代湖に出陣。
その後、藩主・容保の護衛として滝沢本陣へと出陣後、後方支援をするという事で戸ノ口原へ赴く。隊長の日向内記は 途中食糧調達のため隊を離れ、儀三郎は代わって指揮をとった。新政府軍の襲撃を受けつつ飯盛山までたどりついたが、会津若松城は炎上。儀三郎たちの白虎隊は城を目指すか話し合ったが極度の疲労や負傷をしており、この地で自刃をした。
会津藩士・飯沼時衛一正の二男。西郷頼母の妻・千恵は叔母。山川大蔵らの山川兄妹は従兄弟になる。年齢を偽って白虎隊に参加。白虎隊士中二番隊として藩主喜徳の警固の為、新選組と共に猪苗代湖に出陣。「新選組と言うのは会津から古くからある隊名のひとつと聞いております。」と土方歳三に話しかける。その後、白虎隊士中二番隊は後方支援をするという事で戸ノ口原へ赴く。政新政府軍の襲撃を受けつつ飯盛山までたどりついたが、会津若松城は炎上。飯盛山にて他の19名と共に自刃に及んだが、死に切れず命を救われた。
「二本松の戦い」で二本松少年隊として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)。新政府軍の砲撃で重症を負い会津若松まで運ばれる。八重から貰った願をかけた白河だるまを大事に抱えており、そのだるまには目が入っていた。八重は「しっかりしっせえ!しっかりしっせえ!こんな子供を・・・」と励ますが篤次郎は八重の腕の中で息を引き取る。わずか13歳だった。
西郷頼母の妹。慶応4年8月23日、西郷頼母邸にて一族21人で自刃した。26歳だった。
辞世の句は「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」
西郷頼母の長女。慶応4年8月23日、西郷頼母邸にて一族21人で自刃した。板垣退助が西郷邸に乗り込むと細布は、わずかに息をしており『敵か?見方が?』と問い、板垣が『見方だ。』と答えると短刀を渡し介錯を頼んだ。わずか16歳だった。
辞世の句は「手をとりてともに行きなばまよはじよ(次女) いざたどらまし死出の山みち(長女)」
現在の言葉に訳すると”家族 みんなが一緒ならば道に迷う事もなく あの世へとゆく事ができるはず”
幼い頃から八重に鉄砲や砲術を教わる。射撃に邪魔になる事から八重に下髪を切り落とされてしまう。八重からの指導で射撃の腕が優れていたために、年少でありながら白虎隊への入隊を許される。出陣先の猪苗代湖では新撰組・土方歳三から京での活躍を目を輝せて聞いていた。会津戦争では本隊とはぐれ飯盛山までたどり着く。極限状態中、白虎隊は自刃を決意。八重の『まともに撃ち合って無駄に死んではなんねぇ。』が頭に浮かび『まだ、弾は残っている!』と叫んだが仲間が次々と自害をしていく姿を見て悌次郎も『俺も、皆と共に!』とあとを追い自刃した。悌次郎の死を知った八重は鉄砲を教えた事を悔やんだ。
山川健次郎や伊東悌次郎とともに八重から鉄砲を教わる。会津戦争では年少ゆえに白虎隊への入隊がかなわなかった。戦後は東京に移り西南戦争に従軍した。
竹子より6歳年下の妹。容姿端麗で竹子とともに藩内で評判になった。会津戦争の直前に母・こうとともに国もとにはいる。会津では母・姉とともに『娘子隊』を結成、新政府軍と戦う。銃弾を受けて負傷をした竹子の介錯をする。