岡山篤次郎【二本松少年隊】役 大嶋康太
「二本松の戦い」で二本松少年隊として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)。新政府軍の砲撃で重症を負い会津若松まで運ばれる。八重から貰った願をかけた白河だるまを大事に抱えており、そのだるまには目が入っていた。八重は「しっかりしっせえ!しっかりしっせえ!こんな子供を・・・」と励ますが篤次郎は八重の腕の中で息を引き取る。わずか13歳だった。
「二本松の戦い」で二本松少年隊として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)。新政府軍の砲撃で重症を負い会津若松まで運ばれる。八重から貰った願をかけた白河だるまを大事に抱えており、そのだるまには目が入っていた。八重は「しっかりしっせえ!しっかりしっせえ!こんな子供を・・・」と励ますが篤次郎は八重の腕の中で息を引き取る。わずか13歳だった。
二本松少年隊副隊長。「二本松の戦い」で二本松少年隊の副隊長として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)。隊長の木村銃太郎を介錯後、二本松大隣寺の門前で狙撃され戦死。
射撃訓練中に二本松を訪れた八重の尚之助を間者と間違え銃を向ける。
目を開けて銃を撃つ事が出来ないでいたが、八重より『弾の行方だけを追えばいい・・これに願掛けみらんしょ・・』と白河だるまを貰う。「二本松の戦い」で二本松少年隊として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)。松坂門入口で長州兵と遭遇。八重から貰った白河だるまを見つめ『勇気、出せ!』と唱え長州藩隊長・白井小四郎の脇腹を突き刺す。その直後に長州兵に撃たれ、わずか14歳で戦死をする。
二本松藩砲術師範木村貫治の子に生まれ、幼少より砲術を学ぶ。小さな体にあった射撃の姿勢を教えるなど元服前の少年たちに丁寧な指導をしていた。二本松を訪れた八重と尚之助に出会う。新政府軍の二本松侵略に「鉄砲を教えた事が、あだに なんねば・・・」と少年たちを危惧していた。「二本松の戦い」で二本松少年隊の隊長として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)、胸部に銃弾を浴び戦死をする。
【弘化3年(1847年) – 慶応4年7月29日(1868年9月15日)没】