日向ユキ役 剛力彩芽
日向左衛門の娘。八重より6歳年下で、八重を姉のように慕う。実母・ちかを三歳に時に亡くす。八重の弟・三郎には恋心を抱いていた。会津戦争の時に入城できず、幼い弟妹とともに農家の世話になる。戦争で父と兄が戦死。ユキは遺体を捜し出して埋葬した。
日向左衛門の娘。八重より6歳年下で、八重を姉のように慕う。実母・ちかを三歳に時に亡くす。八重の弟・三郎には恋心を抱いていた。会津戦争の時に入城できず、幼い弟妹とともに農家の世話になる。戦争で父と兄が戦死。ユキは遺体を捜し出して埋葬した。
偉大な兄・覚馬、活発な姉・八重の背中を見せて育つ。鉄砲の威力を重臣たちに知らしめたいと、上洛を控えた佐川官兵衛の部隊に入る事を切望するが願いは叶わなかった。
父や兄と同じく江戸の留学を経験後、上洛。鳥羽・伏見の戦いには志願して参加、果敢に敵陣に攻め入ろうとするが、銃撃を受け死亡する。「よぐ狙って・・兄様か・・・兄様、姉上。」が最期の言葉だった。( 第21回「敗戦の責任」)遺髪と軍服は尚之助によって山本家に届けられた。三郎の袴は会津に送られ『会津戦争』では八重が着用して戦った。
会津勘定方・樋口家の娘。慎ましく物静かで、働き者の女性。攘夷派に襲われた覚馬を庇い初子を流産。その後、長女 みねを出産するが覚馬は京都守護職となった松平容保に随行して上洛。うらは娘・みねを抱きかかえ覚馬から貰ったクシを握りしめて見送るが、これが覚馬との永遠の別れとなる。戊辰戦争後、京都での覚馬の生存を知るが覚馬が妻をめとった事を知りうらは、みねと別れ会津で生きていく決心をする。明治15年、会津を訪れた八重・みね、そしてみねの夫・伊勢時雄と会う。結婚を報告した、みねに感涙する。
婿養子の夫・権八との間に6人の子をもうけるが、覚馬、八重、三郎のみが無事に育つ。子供たちを優しく見守る母。会津で天然痘が流行った時は、率先して子供たちに種痘を受けさせた。
幼い頃、藩の代表として江戸に留学。高島流砲術を学ぶ。山本権八良高いの婿養子として山本家の家督を継ぐ。一家の生活は裕福でなかったが教育熱心で覚馬、八重、三郎を立派に育て上げる。幼少の八重を狩猟に連れて行き鉄砲の厳しさを教えた。覚馬の上洛前には心配のあまり多くの耳かきを作る親心を見せた。会津戦争では補給路確保のために編成された決死隊を率いることとなり、米を城に運ぶことには成功するが、自身はその途上で銃撃を受けて瀕死の状態になっており、八重にわしの誇りだと伝え「皆を守れ」と遺言し、家族に看取られながら息を引き取った。(第29回『鶴ヶ城開城』)史実では会津戦争では50歳以上の武士で構成された『玄武隊』の一員として『一ノ堰の戦い』で戦死をした。
大目付・高木小十郎の長女で、八重の親友。奥ゆかしい性格で、祖父と澄江と同じく裁縫が得意。その素養が認められ、照姫(稲森いづみ)の右筆に採用される。鶴ヶ城の篭城戦では、負傷者の手当てをする。のちに新撰組の斉藤一と結婚をする。
但馬・出石藩の石家の三男。蘭学と舎密術を修めた有能な洋学者。江戸の佐久間象山塾で山本覚馬(西島秀俊)と知り合い惚れこむ。
会津の山本家を訪ね居候となる。蘭学所の教授を務めながら八重(綾瀬はるか)と共に新式銃の開発に腐心。覚馬のすすめで八重と結婚をする。戊辰戦争では鶴ヶ城で八重とともに大砲を指揮を執って戦うが、戦後に離縁する。
その後、東京で尚之助と八重は再会。
幼少から藩校・日進館で学ぶ。江戸の佐久間象山の塾では勝麟太郎(生瀬勝久)、吉田寅次郎(小栗旬)と交流。西郷吉之助(吉川晃司)とも出会う。会津に戻り兵制改革と蘭学所の設置を訴え、蘭学所の教授に就任。その後、林権助(風間杜夫)の勧めでうら(長谷川京子)と結婚。京都に上洛後は『蛤御門の変』で目を負傷。のちに失明をする。『鳥羽伏見の戦い』では消息不明となる。
会津藩砲術師範代の山本権八・佐久夫妻の娘。幼い頃から木登りや米俵遊びで男児と競うおてんば娘。父や兄の影響で砲術の道を志す。
父や兄・覚馬に鉄砲をやる事を反対されるが、やがて覚馬に認められ角場に立つ。初めて撃った銃で的に命中させる才能を見せるが、薙刀の腕は山川二葉と中野竹子(黒木メイサ)に劣る。
のちに覚馬を慕ってやってきた洋学者・川崎尚之助と結婚をするが戊辰戦争では別れ離れとなる。
鶴ヶ城の篭城戦ではスペンサー銃で板垣退助の部下を狙撃、幕末のジャンヌ・ダルクと呼ばれた。