八重の桜 第10回「池田屋事件」
元治元(1864)年春。山本覚馬(西島秀俊)は江戸にあった象山塾を手本に会津藩洋学所を開いた。その直後、幕命で佐久間象山(奥田瑛二)は上洛。山本覚馬の元を訪れ、『朝廷に、開国を説くのだ。』と力説する。
会津では時尾(貫地谷しほり)が『うらやましてくしかたながった・・・大蔵様も、いづも八重さんを見でだ・・』と大蔵を好いていた事を八重(綾瀬はるか)に話す。八重も『私だった・・・時尾さんがご右筆に選ばれで。私のほうがお役に立づのにって、うぬぼれていた。』とわだかまりを捨てて語り合っていた。
京では新撰組 斉藤一(降谷建志)が桂小五郎が駆け込んだ邸を突き止めた。「長州藩邸か・・・」。
松平容保(綾野剛)は病を理由に守護職の辞任を願い出たが、「辞められては世も困る。・・ともに命を捨てる覚悟で都をお守りいたそうぞ。」と一橋慶喜(小泉孝太郎)に説得される。
元治元(1864)年6月初旬、再び象山が覚馬を訪ねて来る。『開国こそが国是であると朝廷から天下に号令していただくのだ。国論をひとつにまとめ、攘夷派を抑えるには、これが最上の策である。』と諭す。
会津では、権八が八重の縁談話を勧めている最中、角屋で大爆発。鼻の下を真っ黒にする八重にユキ(剛力綾芽)、三郎は笑い、『今回も、縁談はないようだ・・』とうらにぼやく佐久。
新式銃の開発に取組む尚之助は藩の後押しがなくて悩んでおり、『せめて、私が撃ち方をご披露できればいいのですが・』と励ます八重だった。
6月5日、新撰組は古高俊太郎と言う男を捕らえた。会津本陣に新撰組から長州が京に火を放つ企みがある事が届いたいた。秋月が慶喜や所司代と連携して兵を集めて、いっせいに捕獲する策を提案。容保は、その案で指示をしていた。
京では祇園祭りの最中、祇園囃子(ぎおんばやし)が鳴り響いていた。
『遅い。会津はまだか?』と近藤勇に『行くか!』の土方歳三。
新撰組が独断で池田屋に押し入り、池田屋に潜伏していた宮部鼎蔵ら攘夷派の浪士たちと壮絶な斬りあいとなった。『一大事にごぜいます!新撰組が三条小橋の池田屋に斬り込みました。』
と会津本陣に秋月が駆け込んできた。池田屋で沖田総司に追い詰められた宮部が自刃した。
田中土佐、秋月、覚馬、大蔵たちが池田屋に駆けつけると攘夷派浪士の死体が散らばり、覚馬はかつて会津を出会った宮部鼎の亡骸を見つける。
『肥後の宮部さんでは、ないか!にしら、なぜ勝手なまねを。誰が斬れど命じた!』
『我らも、命がけでござる。お手前らのよう悠然とかまえていては、敵に逃げられる。』と答える土方歳三。その直後、長州藩の残党が覚馬に斬りかかろうとする。とっさに、その残党を斬った斉藤は『隙だらけだ!』と怒鳴る。
池田屋騒動を知った象山は、『愚かなことをしたものだ。長州は今にも牙をむいて襲ってくる。』と覚馬を責めるのだった。
事件を知った会津の頼母は『新撰組はやりすぎる。これで、会津は敵持ちになった・・』と呟き、官兵衛に命じ別部隊を組織し上洛させる事にした。
京で、慶喜、容保、定敬ほか在京諸候が二条城に集まった。容保は武力での討伐を主張したが
『会津の戦いには、つきあえぬ』と慶喜は諸候たちに顔を向けた。
会津では、改良した新型銃を認めず、重臣たちの頭の固さに尚之助が珍しくいら立っていた。
『3倍の早さで撃つ事ができれば兵が3倍いるのと同じだ。・・ろくに評議もせずお取り下げた。わからずどもが!』『あぎらめではなりませぬ。認めでいだだげるまで、ずっと、お手伝いいたしやす。』と八重は懸命になだめた。
同じ頃、箱館では新島七五三太(オダギリージョー)がアメリカのベルリン号に乗って密航を企てていた。『さらば日本・・窮屈な私の国。』と呟くのだった。
第10回 おもなキャスト
山本八重 :綾瀬はるか
山本覚馬(八重の兄) :西島秀俊
川崎尚之助(洋学者) :長谷川博己
斉藤一(新撰組) :降谷建志
時尾(八重の幼なじみ):貫地谷しほり
佐久間象山 :奥田瑛二