黒河内伝五郎役 六平直政
医家に生まれ、黒河内兼博に神夢無楽流の居合術を学び、その養子となり、のちに師範となる。吉田松陰が会津を訪れた際には、日新館を案内した。八重の薙刀の師匠である。晩年、目と腰を痛め、会津戦争では新政府兵に囲まれた弟子・日向ユキ、八重の窮地を救う。史実では戦いで傷を負った次男を介錯したのちに自刃した。
医家に生まれ、黒河内兼博に神夢無楽流の居合術を学び、その養子となり、のちに師範となる。吉田松陰が会津を訪れた際には、日新館を案内した。八重の薙刀の師匠である。晩年、目と腰を痛め、会津戦争では新政府兵に囲まれた弟子・日向ユキ、八重の窮地を救う。史実では戦いで傷を負った次男を介錯したのちに自刃した。
萱野家は会津藩の侍大将を務める名家。京都守護職となった松平容保に従い入京、重臣の一人として藩を統率した。会津戦争では城内との連絡や補給に従事。降伏後、容保を助命するために、藩の責任を一身に背負って自刃した。
明治2年5月18日(1869年6月27日)没
会津藩家老・田中玄良の長男として生まれる。田中家は日新館を創設した田中玄宰などを輩出して名家。容保が幕府から京都守護職就任を命じられた際、反対をするが京都守護職就任が決定すると、容保に仕え上洛。
戊辰戦争では会津の『甲賀町口郭門の戦い』で死闘の末、最期は神保内蔵助と「生まれ変わっても会津で会おう」約束し、彼と刺し違えて自害した。
【文政3(1820)年-慶応4(1868)年10月8日没】
丹波郷士・小田勝太郎の妹。目の不自由な覚馬を献身的に支え覚馬との間に娘・久栄が誕生。その後、覚馬と結婚をする。山本家の一員として生活しながら、目と足の不自由となった覚馬を支え続ける。のちに山本家の書生・青木栄二郎と不義の噂になり『兄から別れてください。』と八重に言われ、『離縁してください。』と覚馬に願いでる。山本家を去った時栄は、神戸の大垣屋の身内に身を寄せることにになる。
人足口入れ業の会津藩御用総元締。資材の調達や土木工事、情報提供など「京の顔役」として君臨する。山本覚馬の窮地を二度にわたり救う。薩摩藩に覚馬が捕らわれたときは、不自由な身の覚馬もとへ小田時尾を世話する。
二本松少年隊副隊長。「二本松の戦い」で二本松少年隊の副隊長として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)。隊長の木村銃太郎を介錯後、二本松大隣寺の門前で狙撃され戦死。
射撃訓練中に二本松を訪れた八重の尚之助を間者と間違え銃を向ける。
目を開けて銃を撃つ事が出来ないでいたが、八重より『弾の行方だけを追えばいい・・これに願掛けみらんしょ・・』と白河だるまを貰う。「二本松の戦い」で二本松少年隊として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)。松坂門入口で長州兵と遭遇。八重から貰った白河だるまを見つめ『勇気、出せ!』と唱え長州藩隊長・白井小四郎の脇腹を突き刺す。その直後に長州兵に撃たれ、わずか14歳で戦死をする。
二本松藩砲術師範木村貫治の子に生まれ、幼少より砲術を学ぶ。小さな体にあった射撃の姿勢を教えるなど元服前の少年たちに丁寧な指導をしていた。二本松を訪れた八重と尚之助に出会う。新政府軍の二本松侵略に「鉄砲を教えた事が、あだに なんねば・・・」と少年たちを危惧していた。「二本松の戦い」で二本松少年隊の隊長として城南大壇口へ出陣(大壇口の戦い)、胸部に銃弾を浴び戦死をする。
【弘化3年(1847年) – 慶応4年7月29日(1868年9月15日)没】
西郷隆盛のいとこ。薩英戦争で洋式大砲の威力に衝撃を受け、江戸の江川塾で砲術を学ぶ。鳥羽伏見の戦いでは、大砲隊を指揮して戦った。会津戦争では、八重に右股を撃たれ負傷する。のちに、旧会津藩の山川家の捨松と再婚をする。
土佐藩士の上士出身。薩長の討幕派と連携し、幕府温存派が主流だった藩論を倒幕の方に傾けた。戊辰戦争では、軍略家の才能を発揮し、東山道先鋒総監府参謀としして甲州・勝沼で近藤勇率いる新撰組を撃破。会津戦争では指揮官を務めたが、二人の部下を八重に狙撃される。