八重の桜 あらすじ 第5回 松蔭の遺言

八重の桜 第5回 松蔭の遺言

安政の大獄で取らえられた吉田寅次郎(小栗旬)は江戸に送られ投獄された。

安政6(1859)年夏、横浜で川崎尚之助(長谷川博己)は勝海舟と共に松蔭の消息を探しており、攘夷派の浪士が異国人を襲撃する事件も続いていた。

『美味しいものを育ててあげて、ありがとうもうし。』とうら(長谷川京子)が豆や大根と話すのに不思議がる八重。その、うらは覚馬(西島秀俊)の子を身ごもり、八重(綾瀬はるか)は佐久(風吹ジュン)と共に喜ぶ。
川崎尚之助は会津に戻り八重たちは土産のこおもり傘やビー玉に驚くのだった。

江戸で長州との密会や幕府にでっちあげられた吉田寅次郎は、老中の暗殺を企てていたと語りだした。

会津では攘夷派の刺客が覚馬を襲ってきた。ビー玉で応戦する八重。しかし、覚馬を救おうとして、うらは流産してしまう。
『なにが攘夷だ・・・うらが不憫だ。』と叫ぶ覚馬。『旦那様に、お詫びを・・』と佐久に謝るうら。『ありがてえもし、うらのおかげで覚馬は命拾いした。』と佐久はうらに感謝の言葉を述べるのだった。
翌日、うらが庭の農作物を見に行くと八重は『茎が伸びていたから竹をつないでみた。豆が喜んでいるみてぇだ。これで、のびのびできるって・』と八重が語ると、うらは泣き出す。

安政6(1859)年10月27日に寅次郎は死罪となった。

『ああーーーーうぁー、なにも殺すことはねぇー。』と叫ぶ勝海舟。
『なぜ、事を急いだ。寅次郎。』と佐久間象山も死を惜しんだ。

会津にも吉田寅次郎の死は届いた。八重は『吉田様は誰も傷つけてねぇ。何故、死なねばなんねえんですか?』と尚之助に問いかけていた。

安政7(1860)年1月、勝海舟はメリケン行きの咸臨丸に乗り込んでいた。
その頃、勝から覚馬へ手紙が届き、

”身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし 大和魂”

と松蔭の辞世が綴られていた。『この国を守るために!ただ 身一つでたちあがらばよい!たちあがれ!』と処刑前に叫ぶ松蔭。

手紙に綴られた松蔭の最期・・・その思い・・

粉雪が降る中、『あと人は、また ばか正直に・・・このままじゃいけねぇと、そのための命がけだ・・』と呟き涙を流す覚馬。それを見つめるを八重も『兄様・・・・』と兄の心情を悟り涙を流すのだった。

安政7年春。会津に春が来ていた。会津の伝統芸能、彼岸獅子の笛や太鼓の音が響き渡った。八重は覚馬、うら、尚之助、時尾と土手へと繰り出した。
獅子太鼓の喧嘩からとっさに子供を救い、『さすが八重さんだ。すばやい動き。』と
幼馴染の山川大蔵に褒められる八重。『大蔵様が・・・、もう、与七郎えはねぇな。』と八重がつぶやいた横で、時尾がそっと大蔵を見つめていた。

安政7(1860)年3月3日 江戸では遅い大雪が降っていた。『愚か者・・・』これが井伊の最期の言葉だった。攘夷派の怒りを買った井伊直弼(榎木孝明)が水戸脱藩浪士らに桜田門外で暗殺された。

覚馬は『会津は幕府と水戸の間を取り持ち・・・和平を保つ・・・』と健白書を頼母に持参するが『覚馬、分際をわきまえろ・・』と頼母の預かりとなった。

『寅次郎さんがやろうどしたことは、・・・国をふだづに割るごどではねぇ。』と嘆く覚馬。

その頃、江戸に上洛した松平容保は、水戸の処分問題で『水戸藩を罰してはなりませぬ。』と発言をしていた・・・・・

第5回 おもなキャスト

山本八重:綾瀬はるか)

山本覚馬(八重の兄):西島秀俊
川崎尚之助(洋学者):長谷川博己
山本うら(覚馬の妻):長谷京子
時尾(八重の幼なじみ):貫地谷しほり
松平容保(会津藩第9代藩主):綾野剛
西郷頼母(会津藩家老):西田敏行
井伊直弼(彦根藩主・家老):榎木孝明
吉田寅次郎(吉田松陰):小栗旬

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です