新撰組・斉藤一 会津藩・松平容保との絆 会津戦争での誠

先日のNHK歴史秘話ヒストリアで『新選組最強ヒーロー!斉藤一 会津藩・松平容保との絆』を放送。大河ドラマ『八重の桜』でも今後、キーパーソンとなる斉藤一の特集です。『八重の桜』でも劇中に登場の京都 金戒光明寺。会津藩の本陣が置かれた寺で八重の桜 第8回「ままならぬ思い」では、覚馬に『殿をお守りせよ。何があろうども・・・よいな』と頼母が頼んだ場所です。
文久3年4月16日に藩主の松平容保が、壬生浪士組の試合を見たいと本陣に招き入れた。第2試合で斉藤一と永倉新八の戦いを見た後に容保は大いに喜び、その後、八月十八日の変での壬生浪士組が活躍、容保は”新撰組”の名を彼らに授けたそうです。
幕府崩壊後、江戸で近藤勇は斬首。斉藤一は新撰組の意思を継ぎ、会津へ。新撰組は会津・天寧寺の近くに宿舎を置いたそうです。寺の邸内には近藤勇の墓があるとの事。会津では土方歳三が負傷しており、代わりに隊長として新撰組を率いたのが斉藤一。

慶応4年閏4月25日、斉藤一(25歳)。白河城の南 稲荷山で戦いの火蓋が切られた。新政府軍400人の軍勢を迎え撃ったのが斉藤率いる新撰組のわずか130人。『島田魁日記』には『敵兵は、ことごとく敗す』と記され大勝利だったそうです。この戦いで新撰組が斬った武川直枝は近藤勇を死罪に追いやった人物。斉藤の初陣は近藤の弔い合戦だったそうです。
慶応4年8月21日。母成峠で戦った斉藤ら800の兵だったが新政府軍に敗北。戦況を報告する為、斉藤は城に戻る。容保は白虎隊を率いて出陣するが、新政府軍の総攻撃で会津若松城(鶴ヶ城)にひいたそです。
慶応4年8月23日に城下に新政府軍がなだれみ、略奪、暴行など起きて地獄のようなありさまになる。藩士、老人、女性、子供たちが会津若松城に集結。5000を超える人が立てこもる事になるが、戦況の悪化で旧幕府軍は脱出する。
旧幕府軍の論議の中、会津を去ろうと言う意見が大勢を占めていく中、斉藤が言い放す、
『それは誠義にあらず。我々は上洛以来、会津には多くの恩がある。今、会津が劣勢だからと申して見捨てる事はできぬ。』

誠の義を貫いた斉藤は会津の残り、僅かに数で敵兵にゲリラ戦を仕掛け如来堂近くで戦っていた。
慶応4年9月4日。斉藤ら13人は新政府軍300人に囲まれた。それでも剣を振るまって戦った斉藤一は、まさにラストサムライ。

明治元年9月22日。武器弾薬は底を付き、容保は降伏。斉藤も、会津と共に降伏したそうです。明治になり、斉藤一は藤田五郎と名乗り警察官になった。西南戦争に参加、斉藤一は八重の幼馴染 時尾と結婚。その時、仲人を務めたのが容保。

大正4年に斉藤は東京・本郷で正座をしたまま死を迎え、死後のこの身を葬ってほしいと言い残した場所が会津。会津若松市の阿弥陀寺に葬られたそうです。
京都の新撰組時代以外はドラマや映画でほとんど描かれなかった斉藤一。
『八重の桜』で会津、そして明治を生き抜いた斉藤一も描かれることになるでしょう。

斉藤一 会津ゆかりのスポット
・天寧寺
新選組が近くに宿舎。近藤勇の墓ある。
福島県会津若松市東山町石山天寧208
・阿弥陀寺
斉藤一の墓、萱野権兵衛遥拝碑がある
福島県会津若松市七日町4-20
ハイカラさん・あかべぇ「七日町駅前」下車すぐ

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