八重の桜 西郷頼母と家族【八重子】の悲劇 レビュー

先日の水曜日に「NHKの歴史秘話ヒストリア 西郷頼母と家族の悲劇」を放送。

そのレビューになります。

冒頭で紹介の「善龍寺の二十一人之墓」。

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善龍寺の二十一人之墓は、自刃した西郷一族を弔うために建てられたそうです。

とりわけ広大な屋敷を持っていた「西郷頼母邸」。会津武家屋敷に復元されていますが敷地面積は2400坪、部屋数は38もある大邸宅。城の真正面にあった西郷邸は会津藩の草創期からあった家柄で徳川将軍家にもつながる名門。妻の千重子(千恵)も上級藩士出身で6人の子供たちにも藩を支える誇りと心構えを伝えたそうです。

頼母は京都守護職の役目を頑固反対した為に家老職を解任。その後、会津戦争で家老職に復帰して白河口総督として新政府軍と一戦を交えるが歴然とした戦力の差を感じ、恭順を提案するが藩内には同意するものがいなかった。

近代的兵器を装備した新政府軍は白河、二本松を破り慶応4年8月23日についに会津若松城下へ突入。

会津若松(鶴ヶ城)城下では、会津の女たちも戦うことになる。

法界寺には娘子隊の中野竹子が使用した薙刀が遺品として奉納してあるそうです。

次々と老人や子供が会津若松城に入る中、西郷千重子(千恵)も誘われたが断った。千重子は、自分たち一族が城に入らないことで少しでも他の人たちに兵糧を回せるようにした。そして生き恥をさらさない為に自刃を決意。千重子は跡取りである11歳の長男だけを城に送り出したそうです。千重子は女性たちを諭し死出の支度を始める。死に装束を整えるため自ら肌着の襟や袖に縫い付けていく幼い娘。

13歳の次女・瀑布と16歳の長女・細布は二人で辞世を詠んだ。

「手をとりてともに行きなばまよはじよ(次女) 」

「いざたどらまし死出の山みち(長女) 」

”家族 みんなが一緒ならば道に迷う事もなく あの世へとゆく事ができるはず”

それが姉妹が残した最後の願い。

一族は次々と自害。最期に母の千重子は幼い娘を手にかけて自刃した。

辞世の句は「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」

”弱々しき女の身は あたかも風に揺れるばかりの細い竹ですが

決して たわむ事のない節もあるのです”

一族が自害した後に、西郷家は火に包まれて焼け落ちた。

野ざらしになっていた21人の遺骨を埋葬したのが頼母の姪・登世子だったそうです。

登世子の尽力によって築かれた「善龍寺の二十一人之墓」。

現在、寺には千重子(千恵)なの竹の歌碑が建てられているそうです。

千重子の死後、玉砕を覚悟していた頼母は、和睦派と対立して会津若松城を追われ、吉十郎を連れて仙台、箱館。戦いに破れ幽閉の身となる。自害も考えたが長男・吉十郎を育てるために生きることした。その事は自叙伝「栖雲記」に詳しく記されているそうです。しかし、吉十郎は22歳で亡くなってしまう。無念と悔恨に、苛まれた西郷頼母の晩年。吉十郎の死後、神社の神官などで各地を20年ほど渡り歩いた。
70歳を迎えた西郷頼母は会津に戻り、むしろを下げただけの長屋住まいを送ったそうです。

何故、頼母は会津に戻った?それには理由はあった。

「善龍寺の二十一人之墓」の隣に自分を墓を建てる為だった。

妻・千重子(千恵)と共に眠りたいからだったそうです。

政府の要職や、ゆとりある生活を送る事も出来た知識人の西郷頼母が全国の放浪する余生を送ったのか?それは、会津戦争で亡くなった会津の人たち、そして妻や子供たちに償いの念があったからでしょう。死んでも妻たちに会わせる顔がない。それなら、事実を後世に伝えて行こうと、悔やんだに違いない事でしょうね。

6月30日には第26回「八重、決戦のとき」が放送。
スタジオパークで西郷千恵を演じた宮崎美子さんが涙を流して語った西郷家が自刃をする事となります。

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