八重の桜 あらすじ 第9回「八月の動乱」

八重の桜 第9回「八月の動乱」

文久3(1863)年8月 山本覚馬(西島秀俊)と秋月悌次郎(北村有起哉)は京に洋学所を作る相談をしていた。そこに、薩摩藩士 高崎を名乗る男が現れ近く行なわれる帝の大和行幸は、三条実美(篠井英介)ら長州派の謀だと話す。

会津では照姫(稲森いずみ)のお国入りが会津で噂になり、時尾(貫地谷しほり)や日向ユキ(剛力彩芽)は城にあがれないかと期待に胸をふくらませていた。
八重(綾瀬はるか)は時尾の弟・盛之輔と悌次郎に火縄銃やゲベール銃の違いを説明後、実際に撃って見本を見せる。鉄砲が一番強いと話す子供たちに八重は笑顔で鉄砲に仕組みを教えるのだった。

京で長州が帝を関東に連れて行き倒幕の兵を挙げ、都に火を放つ企みを知った容保は、秋月に薩摩の高崎と共に宮を訪ねさせて長州を除く勅旨を賜ることを命令した。

8月17日の夜、孝明天皇から参内の命があり、会津の軍勢は十八日の子の刻に本陣を出た。御所に向かう藩士の中に大蔵、行軍の最後尾に壬生浪士組が続いた。御所の門が次々と閉めざされ、蛤御門には壬生浪士組の「誠」の隊旗が、乾御門には薩摩の旗印が翻った。会津は堺町御門の守備にあたり、すべての御所の御門が警備で固められた。

そして詔勅がおりた。それは長州を御所の警備から外し、三条らの参内を禁じるものであった。早朝、異変に気づいた長州勢が堺町御門に押し寄せた。三条たちは、長州藩士らに守られて堺町御門横の鷹司邸にいた。久坂玄瑞(須賀貴匡)は一戦を交える覚悟だが三条は武力行使を禁じ、長州勢は兵を引き揚げた。

松平容保(綾野剛)は堺町御門まで足を運び『皆、よくやった。』とねぎらい、『エイエイエイオー!エイエイオー!』と藩士たちは勝どきあげた。
これが世に言う、八月十八日の政変であった。

秋晴れの日、会津には孝明天皇から宸翰(直筆の手紙)・御製(和歌)をさずけられた。『たやすからざる世の武士の忠誠の心を喜びて詠める』容保を初め、一同は感激のあまり目を潤ませる。『会津の忠心が、主上(おかみ)の御心に届いたぞ。』と容保。
そして壬生浪士組も新撰組と名乗る事になった。

会津では照姫がお国入りをした。『夢みでぇだ。照姫様が道場にお越しくださるなんて。』
と道場で八重が薙刀を振るっていた。謹慎中の頼母の妻 千恵(宮崎美子)も道場に現れ揉めていた。そこに黒河内が照姫を案内して入ってきた。照姫は必死に薙刀を振る千恵を見つめ、一同に言葉をかけた。
『会津を思い、殿を思い、おのが家を思う気持ちが同じならば、たとえいさかいがあっても、それは一時(いっとき)の事。皆、会津のおなごなのですから・・優しく、勇ましくありましょうぞ。』
その言葉に八重は感動し、千恵も目を潤ませたのだった。その夜、八重は『皆様、涙ぐんでいますた。あの方なら、私もお使いしてみてぇ。』と家族に笑って話す。

元治元(1864)年3月 容保より、秋月は砲台築造工事の指示、覚馬は洋学所を開く許可が出た。

会津では、照姫の右筆に八重が選ばれるのではないかと噂をしていた。山本家も、父・権八が『お城から何も言ってこないか?』とそわそわしていたが、八重の友人 時尾が照姫の右筆に選ばれた。
『八重さんがお城にあがってしまったら、ここで一緒に銃を作ってくれる人はいなくなる。・・・・八重さんの代わりはいない。』と落ち込む八重を川崎尚之助(長谷川博己)が励ます。
『私、自分のごどばっかり考えで・・・忘れるどごろでした。兄様のお留守の間、家を守ると約束したの・・』『そうですよ。』『んだげんじょ・・・。私、うれしくて・・ありがてえなし。』
八重は泣き笑いの顔を見せるのだった。

第8回 おもなキャスト

山本八重       :綾瀬はるか
山本覚馬(八重の兄) :西島秀俊
川崎尚之助      :長谷川博己
時尾(八重の幼なじみ):貫地谷しほり
孝明天皇       :市川染五郎
照姫         :稲森いずみ
松平容保(会津藩第9代藩主):綾野剛

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