八重の桜 あらすじ 第8回「ままならぬ思い」

八重の桜 第8回「ままならぬ思い」

文久3(1863)年3月14代将軍家茂は上洛、孝明天皇(市川染五郎)に拝謁した。

京都では天誅と称する人斬りが絶えないが、人手が少ない会津。山本覚馬(西島秀俊)と秋月悌次郎(北村有起哉)は幕府が集めた浪士たちがいる壬生村に会いにいった。土方歳三(村上淳)と名乗る男に案内されると浪士たちが剣術の稽古をしていた。
『尽忠報国の士、総勢24名。精鋭ぞろいにござる。なあ、斉藤くん。』
土方が声をかけると、斎藤一(降谷建志)が殺気をはらんだ鋭い目で一礼した。
覚馬は浪士たちの剣呑な雰囲気が気にかかるが、いちはやく手勢を増やすことが優勢され、この日から、壬生浪士組は会津お預かりに決まった。

京に行く事になった二葉(市川実日子)は、山川大蔵(玉山鉄二)が、上洛前に祝言をあげると八重と時尾に話した。山本八重(綾瀬はるか)と二人きりになると時尾(貫地谷しほり)は涙をこぼす。
『私、ばかみでぇ・・・ひとりで勝手に思って・・』と大蔵に思いを寄せていた時尾に、
『知らなかった・なんも話してくれねぇんだもの・・・』と八重は驚く。もう嫁にいかねぇと言う時尾に、わしもいかねぇと励ます。

文久3年4月21日 将軍警護の中、壬生浪士組は異彩を放っていた。京では覚馬が勝海舟(生瀬勝久)と会っていた。
『(壬生浪士組?)あんなのは好かねぇな。人斬りの人斬りをぶっつけてちゃ、きりがねえ。・・・・象山先生も、死んだ寅次郎さんも遠い先の日本の事を思い描いていたぜ。』
と勝は覚馬に進言するのだった。

文久3年5月10日、長州が下関海峡でアメリカの商船を砲撃。
文久3年5月20日に長州の公家・綾小路公知が刺客に襲われ、関与が疑われた薩摩は御所から遠ざけられ長州派が朝廷の実権を握った。
公家・三条実美(篠井英介)は尊王攘夷派の桂小五郎(及川光博)、久坂元端(須賀貴匡)、真木和泉(嶋田久作)に会津を孝明天皇から遠ざけるように求めた。

会津では大蔵が祝言の前に挨拶に来た。『会津を思うと八重さんの顔が浮かぶ・・・あなたは会津そのものだから。。』その言葉の意味を分からず八重は不思議がる。

西郷頼母(西田敏行)に上洛を許されず、『こったら時に、ご奉公がでぬえなら、6年前のあん時、死罪さ賜ってればよかった。』と言う佐川官兵衛。6年前に人を殺めて切腹のところを容保が罪一等を減ずる温情を佐川にしめしていた。
それを見ていた八重は『上洛の望みが叶わぬのですか・・』と聞くのだった。

京の会津本陣に勅書が届いた。江戸に下り、慶喜に攘夷を促すように沙汰が記されている。この朝議は三条の独擅場で孝明天皇の意向はほとんど考慮されていなかった。
松平容保(綾野剛)が困惑していると、そこに修理が新たなる勅書を持って入ってきた。先の勅書は孝明天皇の本意ではく、会津を京から追い出し、朝廷を意のままに操ろうとするもののたくらみだと記されていた。
『これ、即ち、会津を頼みとするゆえ・・・主上はそれほどに、我らを頼りにされておられるのか・・』と涙を流す容保。

数日後、西郷頼母が京の会津本陣に到着した。京都守護職を退任するよう容保に進言するが、『それは卑怯だ・・・一藩をかけてでも、お守りする。・・・それが会津の儀だ。』
と容保は頼母を睨む。
金戒光明寺で覚馬と会った頼母は、『殿をお守りせよ。何があろうども・・・よいな』と
言い去っていく。

7月になり、孝明天皇の望みで会津は御所で軍事訓練を披露する事になる。容保は孝明天皇から下賜された緋色の衣で仕立てた陣羽織を着て先頭を行く。

会津では、頼母が木の手入れをしていた。『誰も思ったように生きられぬ。』と話す謹慎になった頼母に、八重は『私にお手伝いさせてくだしゃい。木が枯れると私も困るから・』と言うのだった。

第8回 おもなキャスト

山本八重       :綾瀬はるか
山本覚馬(八重の兄) :西島秀俊
山川大蔵       :玉山鉄二
時尾(八重の幼なじみ):貫地谷しほり
勝海舟        :生瀬勝久
孝明天皇       :市川染五郎
松平容保(会津藩第9代藩主):綾野剛

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